My徒然日記帳

スナップショットの感覚で世の中の事象をとらえ、浮かんだ考えを気ままに綴っていきます。

伝説のクライマー マルコ・パンターニ③1998年Jウルリッヒとの死闘

1998年。Bianchiは久々の記念モデル『PANTANI GIRO 101』と『TOUR DE FRANCE  REPLICA』を立て続けに発売しました。あのファウスト・コッピ以来、46年ぶりにパンターニがダブルツールという名誉を名門Bianchiにもたらしたからです。ダブルツールというのは、ジロデイタリアとツールドフランスという過酷なレースを同じ年に制覇することを言います。世界にはグランツールと呼ばれる約2週間の期間をかけて総合タイムを争う自転車レースが有り、それがイタリアのジロデイタリア(5月)、フランスのツールドフランス(7月)、スペインのヴェルタエスパーニャ(9月)です。参加するプロ選手達は、この長丁場のレースのために、かなり早い段階から準備を始め、ピークをグランツールに合わせて調整をします。なので、このうちの2つのツールを同年に制覇するというのは至難の業で、Fコッピ、Eメルクス、Bイノー、Mインデュライン、Sロッシュ、Jアンクティルなど、片手で数えるほどしか達成した選手はいません。それをクライマーであるパンターニが達成したというのは、まさに奇跡的な出来事でした。何故ならクライマーは山岳ステージで強さを発揮しますが、平地を不得意とする選手が多く、TTで大きく差を付けられ、その差をひっくり返すのが困難だからです。ツール5連覇のMインデュライン以降、TTが速く登りも強いオールラウンダーといわれるタイプの選手でなければ、もはやグランツールは勝てないだろうと言われていました。

雨の第15ステージで、ツール総合優勝をほぼ手中にしたパンターニ

1998年のジロデイタリアでパンターニが総合優勝を果たし、メルカトーネUNOチームはツールドフランスへの参戦権を得ていました。しかしエースのパンターニは好調とは言えずスタート時点で181位と出遅れ、優勝候補とは見られていませんでした。対して前年の覇者、チーム・テレコムのヤン・ウルリッヒは第7ステージのTTで平均速度46Km/hという速さを見せてライバル全員を引き離すことに成功。総合タイムでライバルに1分以上の差を付けてトップに立っていました。パンターニが動いたのは第10ステージ。区間優勝を狙うと見せかけ、先頭を行くカジノのマッシを追ってエース集団を飛び出し、総合順位を11位へとジャンプアップさせます。続く第11ステージでは圧倒的な速さを見せ、ウルリッヒを引き離すことに成功しステージ優勝。総合でも3位につけます。しかし、この時点での総合タイム差はまだ3分01秒。登りに強いウルリッヒに追いつくことは容易ではないと見られていました。

ピレネーの第11ステージでパンターニがステージ優勝。総合でも3位に。

そして戦いの場はアルプスに移り、運命の第15ステージを迎えます。天候は雨。2つのカテゴリー超級峠を越えて、最後の登りゴールのドゥザルプまでのコースで、パンターニは早くも一つ目の峠でアタックを仕掛けます。ウルリッヒは峠の下りで追いつく計算で、パンターニをあえて追わず、自分のペースを守っていました。ところがガリビエ峠の登り口に差し掛かったところで、まさかのパンクに見舞われます。先行するパンターニに焦ったウルリッヒガリビエ峠の頂上で雨具を着用せずに下りに入りました。総合2位のBジュリクは走りながら雨具を着たためにコースアウト。余裕のあるパンターニは自転車を一度停めて、雨具を着用していました。この差が運命を分けます。アルプス山頂の峠は気温4℃と冷え込んでおり、ウルリッヒは完全に体を冷やしてしまい不調に陥ります。最後の登りのドゥザルプでは、アシストに引いてもらわないと走るのもままならないほどに衰弱していました。ここからパンターニの反撃が始まります。パンターニは雨の中を渾身のダンシングで疾走し、タイム差をひっくり返すどころか、なんと総合タイムでウルリッヒに5分56秒もの大差を付けてステージ優勝し、マイヨジョーヌを手に入れたのです。早いタイミングで仕掛けたパンターニの読みが見事に的中したのでした。

第15ステージでパンターニは奇跡の逆転を起こす。彼の読みは的中した。

総合順位を4位まで落としてしまったウルリッヒでしたが、翌日の第16ステージは完全に調子を取り戻し、反撃体勢に入ります。ビハインドを背負ったウルリッヒはステージ序盤から逃げを仕掛け、それをパンターニが追うという展開です。この二人の走りについて行ける選手は誰も居なくなり、ウルリッヒパンターニの一騎打ちになりました。パンターニは一歩も引けを取らず、最後のゴールではウルリッヒとのスプリント勝負までやって見せました。

第16ステージ。逃げるウルリッヒにぴったりと張り付き、一歩も引かないパンターニ

結局両者の差は縮まることは無く、勝負は最終日の前日のTTに持ち越されます。ここでパンターニが総合のタイム差を守り切れば総合優勝が決まります。ウルリッヒはトップタイムをたたき出しますが、パンターニはクライマーでありながらなんと3位という速さを見せ、3分の余裕を残して見事ウルリッヒを退けることに成功したのです。何故クライマーのパンターニがここまで好タイムを出すことができたのか。クライマーは山岳で攻勢を仕掛けることでTTに強い選手の体力を奪い、有利に戦う事が出来るとは言いますが、やはり黄色ジャージを着たときの精神的的な強さがパンターニのミラクルな走りを産みだしたのではないかと思います。1998年ツールドフランスの歴史的な逆転劇はこうして幕を下ろしました。この結果を一体誰が予測したでしょうか。

ウルリッヒは第20ステージのTTでパンターニを逆転することが出来なかった。

パンターニの誰も太刀打ちできない登りの圧倒的な強さの源は一体何でしょうか?私は二度に及ぶ過去の大事故から立ち直った精神力にあると思います。一度目はコースに飛び出した犬(猫という説もある)を避けようとして転倒、二度目はコースを逆走してきた車と激突して再起不能と言われるほどの重傷を負ったのですが、その度にパンターニは不死鳥のごとくレースに戻ってきました。ラルプ・デュエズでの歴代最速タイムによるステージ優勝、ツールドフランスでの3位入賞、そしてジロとツールを同年に制するというダブルツールの達成によって世界の頂点に立ったのです。パンターニは伝説のクライマーとして、多くの人々に語り継がれていくでしょう。

再起不能と言われる重傷を負ったパンターニ。彼は苦難を乗り越えレース界に戻ってきた。

 

伝説のクライマー マルコ・パンターニ②Lアームストロングとの確執

ランス・アームストロングツールドフランス7連覇というせっかくの偉業が、ドーピングが発覚して取り消し処分になり、ガッカリしたのは私だけでは無いと思います。何にガッカリしたかっていうと、私はアームストロングにガッカリしました。アームストロングといえばTREKという巨大企業のバックアップを受けて、チームでは帝王的な存在で、チームの選手は彼に絶対服従を誓わせられるというのをよく聞いていました。ドーピングについても、米国の先端技術で、絶対にドーピング検査では検出できない薬(羊の血から抽出した成分を使っていたらしい)を開発するという、企業の資金力に物を言わせて、世界最高峰の自転車レースを席巻し、自転車を売りまくろうという戦略のための手段だったわけです。この狙いは見事に当たって、TREKは日本でも大成功を収めました(だから私はTREKは買わない)。Lアームストロングは巨大企業に利用された挙句、ドーピングが発覚するやいなやゴミのように捨てられてしまったわけで、金と権力の世界に翻弄されて悲しい運命を辿った男というのが透けて見えます。癌からの奇跡の復帰というのも、そのために周到に用意された美談だったという気がしてしまいます。世界中がTREKの仕組んだ劇場型のCM大作戦に踊らされていたんでしょうね。

Lアームストロング7連覇の2005年ツールドフランス。自分の目で見て写真に収めた。

1998年にパンターニがツールを制した後の1999年以降はLアームストロングが周囲を寄せ付けない圧倒的な速さで連覇を続けました。アームストロングはペダルをあり得ないような高回転で回す走法が武器で、その速さはパンターニをも上回るのではと思われました。パンターニは2000年に再びツールに復帰しましたが、この年に山岳ステージのモンバントゥが復活し、Lアームストロングとパンターニの一騎打ちの様相を呈して、どちらが勝つか世界の注目を集めました。しかし、このゴールがパンターニとLアームストロングの間に決定的な確執を生みます。Lアームストロングは常にパンターニの先を走り続けていたのに、最後のゴールスプリントで勝負をしませんでした。そして、後でインタビューの時に「俺はパンターニに勝ちを譲ったんだ」と公言したのです。

問題のモンヴァントゥ頂上ゴール。パンターニの勝利と思いきや、その後...

よく総合優勝の圏内にいるエースが、山岳ステージでクライマーとあえて勝負をしない事があります。クライマーは敵チームのエースと先頭交代をしながら協力し、その代わりエースは引いてもらったお礼にステージ優勝を譲るという暗黙の了解があるからなのです。いわばGIVE&TAKEの関係で、総合を狙うエースはステージ優勝などは眼中にないからなのですが、これが美談とされる事があります。インデュラインは、よくそのやり方で好意的に見られていました。ところがアームストロングの場合はどうでしょうか。彼はパンターニに協力してもらうどころか、最初から最後までパンターニの前を行き、いかにも俺がパンターニを引いてやっているというように見せておきながら、最後は慈悲で勝たせてやったように振る舞って、わざとメディアの前でそう言い放ったのです。ドーピング事件で精神的に傷を負っているパンターニは、このツールでは全くの優勝圏外にあり、プライドを取り戻すためにどうしてもステージ優勝が欲しかったに違いありません。しかし彼はダブルツールを成し遂げた名誉あるチャンピオンであり、勝ちを譲ってもらうような格下のクライマーとは違うのです。この時に解説をしていた市川雅敏さんは、このアームストロングの行為に怒りを露わにして、過去のチャンピオンを侮辱する行為であり、少なくとも「譲った」などということチャンピオンは決して口には出さない、と言っていました。市川雅敏さんは長く欧州のプロレースで活躍した人で、選手の気持ちやレースのあり方をよく知っている人です。そんな市川さんだから、アームストロングがやった事は、チャンピオンとしての資質に全く欠ける行為と映ったんだと思います。

日本人初のジロデイタリア完走を果たした市川雅敏選手。

この確執はこれだけでは終わりませんでした。チャンピオンとして最大の侮辱を受けたパンターニは、次の山岳ステージでアームストロングに挑戦状を叩きつけます。彼の真横を走って中指を突き立て、俺と勝負しろと挑発したのです。アームストロング側も応じてやるとばかりに二人は勝負を始めます。その時のパンターニの速さは正に鬼気迫るもので、あの往年の速さが戻ってきたような気がして、私は目頭が熱くなりました。アームストロングはなんとか付いていったものの歯が立たず、最後はハンガーノックを起こして他の選手からも遅れ、順位を落としてしまいます。パンターニは自暴自棄とも言える無茶な走りによってリタイヤとなり、ここで彼のツールは終わってしまいました。でも私はパンターニの男気を見た気がして、胸がすく思いでした。

2000年。パンターニはチームのために献身的に働き、ガルゼッリをジロ優勝に導いた。

自分の力を誇示し、帝王のように振る舞った挙句、最後はドーピングがバレて、ツール連覇の剥奪どころか、レースからも永久追放されたLアームストロング。彼の横暴な振る舞いを快く思っていない選手は少なくなかったことは容易に想像できます。内部からの密告によってドーピングが明るみに出て、失墜したんだろうと私は思っています。彼は反面教師として長く記憶される事でしょう。

伝説のクライマー マルコ・パンターニ①薬物疑惑の真相

自転車ロードレース界における最強クライマーといえば、私はパンターニを挙げたいと思います。あの難所で有名な峠、ラルプ・デュエズにおける最速タイムの保持者であり(ランス・アームストロングでさえ記録を破れなかった)、クライマーでありながらダブルツール(同年にジロデイタリアとツールドフランスを両方制すること)を達成するという偉業を成し遂げたイタリア人チャンピオンです。勝負所の山岳ステージで彼が猛然とスパートをかけると、あっという間にエース集団がバラバラになり、更に何度も繰り返される波状アタックに対して付いていける者は誰もいないという、その爆発的とも言える速さは正に最強でした。しかし、ダブルツールを達成した翌年の1999年のジロにおける失格は、彼の人生を完全に狂わせてしまうほどの出来事でした。それ以降、パンターニは何度かレースに復帰したものの、最後は麻薬中毒で廃人同然になり、2004年に亡くなりました。パンターニを巡るドーピング疑惑は、世界アンチドーピング機構やイタリア警察までも巻き込んで、詐欺罪の裁定という結末になりましたが、その一連の事件は謎に包まれています。彼を死に追いやたものは何だったのか。

ラルプ・デュエズで歴代最速タイムを記録したパンターニ

スポーツ界におけるドーピング問題は、過去に幾度となく繰り返されてきました。1988年のソウルオリンピックで人類で初めて9秒8の壁を切ったスプリンター、ベン・ジョンソンのドーピングによる金メダル剥奪が世界を震撼させたのは記憶に新しいと思います。スポーツにおける禁止物質の規定は1960年のローマオリンピックにおいて自転車選手が薬物で命を落としたことに端を発します。国や地域を越えて全体的な動きとなったのは1999年に世界アンチ・ドーピング機構(WADA)が設立されてからです。パンターニのジロ失格は、まさにその年の出来事でした。

1999年ジロデイタリア。好調を維持し独走を続けるパンターニ

前年にダブルツールを達成したパンターニの人気は鰻登りで、1999年のジロデイタリアでも序盤から好調を続けていました。2位のIゴッティに大差をつけ、パンターニの総合優勝は誰の目から見ても明らかでした。イタリア人にとってジロデイタリアで連勝することは、この上無い名誉だと言われます。ところが最終日の前日の夜、勝利を確信していたパンターニを衝撃が襲います。血中酸素濃度を表すヘマトクリット値の検査の結果、上限規定の50%をわずかにオーバーしていたという健康上の理由でジロ運営側より失格処分を言い渡されたのです。パンターニは怒りのあまりホテルのガラス窓を拳で叩き割ったと言います。それほどまでに彼が失ったジロ連覇というのはかけがえのないものだったのでしょう。しかし、健康上の理由で優勝を剥奪されるというのは一体どういうことでしょうか。

1999年ジロデイタリアにおけるパンターニの失格処分で自転車レース界に激震が襲った。

実は前年のツールドフランスで、優勝候補のリシャール・ヴィランクを擁するフランスの名門チーム、フェスティナが組織的なドーピングをやっていた事が発覚し、チーム全員が失格処分となっていました。EPOという血中酸素濃度を増加させる薬剤が摘発され、一大スキャンダルとなっていたのです。実は当時はまだEPOを検出する技術が無く、レースの運営側は血中酸素濃度を測ることで、EPO使用疑惑のある選手を摘発していたわけです。その年にツールで総合優勝したパンターニやライバルのウルリッヒは当然ながら血液検査をクリアしていました。それが翌年、突然パンターニに降りかかったのです。表向きは健康上の理由ですが、つまりEPO使用の嫌疑をかけられたわけです。でも、これには不可解な点があります。ヘマトクリット値の上限値は公開されており、各チームは当然それを超えない様に事前にチェックをしていました。では何故パンターニは失格になったのでしょう?

1997年ツールドフランスの勝者。左:ヴィランク 中央:ウルリッヒ 右:パンターニ

これは後年分かった事ですが、最終日までの血液検査器は上限値が甘く調整されていたらしく、何故か最終日の前日だけ、突然厳しく再調整をしたというのです。すなわちアンチドーピング機構側はパンターニEPO使用を知りながら、散々泳がせた挙句に、わざと優勝目前のところで見せしめのために失格処分にしたという疑惑があるのです。これは状況から見て恐らく間違い無いでしょう。そしてEPOの検出が可能となって以降に分かった事ですが、過去の血液サンプルを調べ直した結果、EPOを使用していたのはパンターニだけでなく、ジロで繰り上げ優勝したゴッティやウルリッヒを含め、当時のほとんどのエースがEPOを使用していたことが判明したのです。つまりEPOが禁止物質とされていなかった事から、ほとんどのエースがヘマトクリット値をEPOで調整していたわけです。アンチドーピング機構は、クライマーのパンターニが元々ヘマトクリット値が高く、ギリギリの値だった事を利用して罠を仕掛けたのではないかと取れるのです。それに対して、パンターニEPOの使用を否定し続けました。そして、遂にイタリア警察が乗り出し、詐欺罪としてパンターニを告発するに至ったのです。国家を敵に回してしまったパンターニは度重なる捜査や尋問で精神的にも肉体的にも追い詰められ、次第に精神不安定に陥ります。検察側は更に輪をかけるように何年も前に遡ってパンターニの血液を調べ上げ、告発以前からEPOの使用を続けていると主張しました。その何年にも及ぶ裁判はパンターニをボロボロにした挙句、スポーツ詐欺行為という裁定で幕を下ろしました。これは偉大なるチャンピオンのパンターニにとって耐えられない屈辱でした。彼は、遂に麻薬にまで手を出してしまったのです。

2003年、亡くなる前年のパンターニ。精神的に追い詰められ、もはや活躍の場は望めなかった。

実はあのEメルクスもドーピング事件を起こしたうちの一人でした。Eメルクスはドーピングが発覚した時に、涙ながらに懺悔し許しを乞いて罪を償ったので、今では彼のことを悪者呼ばわりする人はいません。しかしパンターニは逆に一切の関与を否定したために、国家までも敵に回し、悲劇的な結末を迎えてしまったのです。パンターニは死ぬ直前にEPOの使用を周囲に漏らしていたと言います。当時ほとんどのエース達がEPOを服用していた状況下では、使用しないことはすなわち敗北を意味したんだと語ったのです。繰り返しますが、1999年のジロ失格の理由は健康上の理由であり、ドーピングによる失格ではありません。だからジロ運営側はEPO摂取が明らかになったゴッティを未だに優勝取り消し処分にしていません。ドーピングが明らかになって永久追放処分になったランスアームストロングとは違うのです。日本の多くのメディアはそういう事情を知らず、パンターニのことをこぞって悪く書きました。恐らくイタリア人のパンターニのファンの多くがこの真相を知っており、それが故にパンターニは国家権力によって殺されたのだと訴えているのでしょう。私はパンターニEPO摂取を批判する気になれません。そして、この出来事の本当の意味を少しでも多くの人に知ってもらいたいというのが私の思いです。

パンターニの葬儀に参列する選手達。ジロ優勝のクネゴの姿も見える。

長岡鉄男さんの辛口評論

今はもう亡くなってしまいましたが、私が知ってる辛口評論家の元祖といえば、長岡鉄男さんです。長岡鉄男さんは、元コント作家(?)という肩書きの異色オーディオ評論家で、スピーカーの自作(特にバックロードホーン)で有名な方です。昔、週刊FMというエアチェック(ラジオから音楽を録音すること)の雑誌があって、当時はレコードも高かったし、FM放送からクラッシック音楽とかを録音して聴くというのが流行っていました。その週刊FMが「長岡鉄男のダイナミック・テスト」というのを連載していて、オーディオ製品の良いところも悪いところもズバズバ指摘するので、面白くて読んでいました。年末には「ダイナミック大賞」という年間ベストバイ機を選ぶ特集記事があって、オーディオ機器の購入の際に参考にしていました。

オーディオ評論家というのは大抵がメーカーと深い関係にあり、テスト機を貸し出してもらうことで評論を書いて生計を立ていたので、悪口を書かないと言われていました。事実どの評論家も、褒めはしても決して悪口を書かないので、大抵のオーディオの評論記事は、全部が素晴らしい機種ということになっていました。長岡鉄男さんの場合は逆で、メーカー側が頭を下げて試聴してくださいと持ってくるので、今風に言えば忖度するという事が無かったと思います(唯一fostexだけは例外だったかも)。確かにオーディオというのは個人個人で好みが違うし、良い音というのは定義しにくいのですが、スペアナ(周波数ごとの音の大きさを測る装置)をマイクに繋いで周波数特性を分析する事で、これはドンシャリサウンドだとか、できるだけ客観的な評価を心がける様にしていました。またStereoSound誌とかの評論家の先生が褒める機種は高価すぎて高嶺の花でしたが、長岡さんは「ハイCP」という言葉をよく使っていて、値段の割に良い音がする製品を推奨していました。59800円は激戦区なので各社開発費を注ぎ込んでいるからCPが高いんだと長岡さんが言っていましたが、確かにベストセラー機が多かったし、長岡さんの影響も大きかったと思います。

自作スピーカーの周波数特性を測る長岡氏

長岡さんの教えは「スピーカーの3倍くらいアンプにお金をかけろ」でした。当時のベストセラーのスピーカーはペアで59800円〜69800円でしたから、スピーカーを鳴らし切るにはアンプは20万円くらいのが必要と言っていました。それから、アンプでもスピーカーでも重いほど良いという事を唄っていて、当時はメーカーもその教えに従ってアルミダイキャストシャーシだとか、アルミの無垢の削り出しのボリュームだとかを真面目にやっていましたね。確かに重い機種は音が良かったし、逆に言えば、そこまでやる気のあるメーカーは、音も良いって事だったと思います。そんな長岡さんのリファレンス機はというと、プリアンプはオーレックス(東芝)SY-88やDENON PRA-2000、パワーアンプMOS-FETのLO-D(日立)HMA-9500が有名でしたね。晩年、プリはアキュフェーズC-290V、パワーはLux Man B-10II(モノラルパワーアンプで重さがなんと1台あたり43.5kg)に買い替えたと思います。私もC-290Vが欲しかったのですが、長岡人気のせいか、なかなか値が下がらず、諦めて先代のC-280Vを中古で買いました。C-280Vも名機で、熱したバターナイフがバターに切れ込む感触と評された部品代だけで10万円もすると言われた松下製の高級ボリュームを使っていたのですが、初めて音を聴いたときの印象は恐ろしくSN比が高く、女性ボーカルの息づかいまで鮮明に聞こえて、あまりの生々しさにびっくりしたのを憶えています。アキュフェーズというのは非常に良心的なメーカーで、部品がある限り修理対応してくれるんですが、さすがに20年くらい経って、もうこれ以上修理は出来ませんと言われて手放し(20万円くらいで売れた)、今はC-3850を使っています。もし長岡さんが生きていたらC-3800をどう評価したでしょうね。

長岡氏が晩年に愛用した Accuphase C-290V

長岡さんは晩年、方舟と命名した鉄筋コンクリートの三角形の建物を自宅横に作ったのですが、中は自作の傑作スピーカーが並べられたオーディオ・シアタールームになっていました。サンスイ、オンキョー、DENONなどの有名メーカーがこぞって開発中のプロトタイプを持参して、試聴を願い出ていたようです。長岡さんはレコードのコレクターとしても有名で、方舟の壁いっぱいにぎっしりレコードが収納されていました。その買い方が独特で、ジャケットを見て良さそうなのをバーっと買ってきて聴きまくるというものです。玉石混交でその中に宝石のようなオーディオ的名盤が混じっているそうです。概してジャケットが良いものは音も良いと言っていましたね。自分の好みの音を、よく「シャープでダイナミックで坊主が裸足で逃げ出す音」と表現しておりましたが、長岡さんの推薦レコードは、どれも凄まじく良い音がしました。

今はもう若い人の間ではオーディオなんていうのは死語になってしまって、オーディオ専門店があちこちひしめいていた秋葉原オタク文化の街に変貌してしまいました。6000円の超軽量な中華デジアンが驚くような音を出す時代になりましたが、長岡鉄男さんが活躍した重厚長大なオーディオが絶対的だった頃を懐かしく思い出します。

プロが乗る自転車

昔のロードレーサーはよくエースだけが特別製だったと聞きます。どういうふうに特別かというと、チームが使っている自転車メーカーに乗るのは絶対なはずですが、エースだけが外観をチームと同じカラーに塗って、実は中身はお気に入りの工房のフレームだったというような話です。そんな我が儘が通ってしまうくらい昔のエースは特別待遇だったんでしょうね。私がロードレースに興味を持ち始めた頃、東独出身のエース、ウルリッヒ(1997年ツール総合優勝)がプロトタイプのピナレロ(プリンスのカーボンバックステーが細身のタイプ)に乗っていて、エースっていうのは特別なんだなあと思って観ていました。ツールドフランスに総合優勝するというのは大変な偉業で、そのくらいの格になると、もう特別扱いせざるをえないんでしょうね。ただし今はそういう事は無くなったと思います。

Jウルリッヒが乗るプロトタイプのピナレロ

ではツールドフランスでプロが乗っている自転車は市販品と一緒なのでしょうか?チームはそんな風に選手を甘やかすような事をするかというと、恐らく否です。逆に言うと与えられた機材のレベルとは関係なしに、文句を言わずに結果を残すのがプロのレーサーとしての責任で有り、プライドでもあると思います。どこかの雑誌で読みましたが、やはりプロが乗っているフレームは市販品と変わらないと書いてありました。今はコマーシャルにお金をかける時代で、米国企業のTREKなんかはその筆頭だと思いますが、自転車をチームに供給するのは商売のためで、広告費の一部と考えているのでしょう。すなわち市販品を供給した方が売り上げに結びつくからだと思います。

Eメルクスが乗ったDE ROSA。デローザの名前はどこにも無い。

DE ROSAとCOLNAGOを比較するときに、よく商売上手なエルネスト・コルナゴに対して、職人堅気なウーゴ・デローザみたいに言われます。エルネストは自分でバーナーを握ってフレーム作りをやるのではなく、腕利きの職人を雇って自分はマネージメントの方に専念して力を発揮するというやり方で成功した人です。逆にウーゴはエディ・メルクスみたいな大選手の要求に応えて、愚直にフレームを作り続けてきた職人です。雑誌で読んだのですが、ウーゴ・デローザは「昔はプロの選手に対してフレームを作ってやったものさ。選手は金を出して俺のところに頼みに来た。でも今は時代が変わって商売のためにこっちが金を払って頭を下げて使ってもらうようになってしまったね」と嘆いていたそうです。そういうウーゴの言葉に、職人としての誇りと心意気を感じます。私はDE ROSAが日本で人気があるのは、そういう日本人にも共通した「ものづくりへのこだわり」が背景にあるのではないかと思います。

アルミ・フレームのメラクを担ぐウーゴ・デローザ。

そんなDE ROSAですが、スチール・フレームが主役の座をアルミ・フレームに明け渡すと同時に、ウーゴは引退して自分の子供達に会社を譲りました。アルミ・フレームは溶接の加工が難しく、メーカーが指定した特別な設備を入れる必要があり、それが出来る資金力がある大手メーカーが独占する様になりました。それまでイタリアには小さな自転車工房がたくさんありましたが、多くの工房が店を閉めました。それと同時に、職人の腕がものをいう時代は終わりました。今はカーボン・フレームの時代になって、工場での大量生産が可能です。大量生産によるコストダウンで、高性能なカーボンフレームを安く手に入れることが出来る様になりました。でも私は、何か大切なものを失ってしまった様な気がします。

謎の円盤 UFO

皆さんも子供の頃の懐かしい番組があると思いますが、私が小学生の頃は『謎の円盤UFO』というのがありまして、一番印象に残っています。時間は確かゴールデンタイム(午後7時~8時)でした。『サンダーバード』で有名なゲイリー・アンダーソンの手によるイギリスのSFドラマです。それまで観ていた特撮物の『ウルトラマン』、『ウルトラセブン』などに比べ、物語が大人っぽいのが子供だった私にはものすごく格好良くて、夢中になって観ていました。番組の最後に、映画評論家の小森和子さん(小森のおばちゃま)の語りが入って、その後にプラモデルのプレゼントがあり、欲しくて街中のプラモデル屋さんを巡ったのを憶えています。特に「スカイ・ダイバー」が人気で、どこも売り切れで中々手に入らなかったですね。手に入れたときはもう嬉しくて嬉しくて、DVD BOXの付録本で庵野秀明さんもやりましたって言ってましたが、ゼンマイを抜いて風呂場でスカイ1の発射をやって遊んだうちの一人です。

謎の円盤UFOのオープニング。乗り物が次々と登場して、その解説にしびれました。

登場人物で一番カッコイイと思ったのは言うまでも無く「沈着冷静な」ストレイカー司令官で、そのほか、フォスター大佐、フリーマン大佐、エリス中尉、レイク大佐、ドクター・ジャクソン等々、魅力的な登場人物が沢山いました。

時間凍結エリアの外にいて凍結を逃れたストレイカー司令官とレイク大佐。

ストーリーの中で一番印象深かったのは、第24話の「UFO時間凍結作戦」ですね。宇宙人が地球防衛組織シャドーの司令部の一帯の時間を止めてしまい、その間に司令部を攻略しようとする話で、今観ると子供だましなんですが、当時はこれは凄いと思ったんですね。ただ時間が止まってるから俳優さんが動かないで頑張ってるんだけど、よく見るとみんなグラグラで、そこがご愛敬というか面白いです。

シャドーの隊員に裏切り者がいて、姿の見えない敵を探知機を頼りに探す二人。

ヨーロッパの1970年頃の古い映画の中で、特にイギリスが制作したものって、怪しげで気味の悪い人形が出てきたり、サーカスとか道化師とか、なんか独特の雰囲気がありますよね。謎の円盤UFOもそういうのが時々出てきて、今観ても凄いなと思います。レイク大佐のファッションも最高ですね。

バズーカ砲でUFOを狙うストレイカーだが、発射ロックの解除キーを盗まれてしまう。

途中、キーの奪い合いをやるシーンが有って、シャドーの秘密基地の隠れ蓑になっている映画会社の中でおもちゃみたいな車で鬼ごっこをするんですが、時間の巻き戻しをしたり、過去のストレイカーが登場したりして、見所満載です。

時間の巻き戻しによって自分に遭遇するストレイカー。時間を操る敵に弾が当たらない。

結局最後は敵が墓穴を掘って、頭の冴えたストレイカー司令官がキーを奪い返し、UFOを打ち落とすんですけど、時間凍結に逆らうために打った注射(活動能力を10倍に増す薬)のせいで、制御が効かなくなって暴走を起こします(シャドーのみんなを起こすために司令部を壊したって解説が入るんだけど、ちょっと違うと思う→時間が戻って活動能力がウン十倍になったから?)。

キーを奪い返して、見事UFOを仕留めるストレイカー司令官。しかし彼は暴走を始める。

このストレイカー司令官がバズーカを撃つシーンって、後で見返してみると、なんか『機動戦士ガンダム』がビームライフルを撃つシーンに影響を与えている気がします。その他、全話を通じて各所に後の作品への影響を見ることが出来ると思います。

ドクター・ジャクソンの投薬で正気を取り戻したストレイカー。ジャクソンが皮肉を言う。

もう一つだけ紹介しておきたいのが、第20話「謎の発狂石」ですね。映画制作現場の裏をかいた傑作です。

突然、映画舞台の中に入ってしまうストレイカー司令官。UFOが残した石のせいだった。

シャドー内部で突然次々と発狂者が出て、殺される隊員がどんどん増えていきます。発狂者の共通点を追っていくと、UFOの謎の自爆の現場に関わっていることが見えてきます。現場で拾った石に触った人間が幻覚を見る様になるのですが、ストレイカー司令官も知らずに石に触れてしまう。表向きは映画会社の社長を装っているストレイカーですが、突然シャドー司令部が映画のセットに見えるという幻覚に襲われます。

自分の生い立ちの映画を見せられるストレイカー。幻覚がどんどんエスカレートする。

このシーンの切り替わりが凄いんです。ヘンダーソン長官と激しく言い争いをしている時に、「カーット!」のかけ声でストレイカーが突然映画の撮影現場の役者になっているわけです。これを観ている我々は、謎の円盤UFOの撮影セットが全部見られるというのも面白いのですが、なんか劇中劇を見ているみたいで複雑な気分になります。こういう話を思い付くって本当に凄い。

スカイ・ダイバー艦内の隣はムーン・ベースの撮影現場。シャドー隊員の演技が上手い。

最後は、自分が幻覚の中にいることに気がついたストレイカーが、石が原因ではないかと疑って石を壊すんですが、正気に戻った時はまさに銃で狙われて殺される直前でした。危なかったですね、ストレイカー司令官。

殺される直前で我に返ったストレイカー司令官。いろいろと見所が多い「謎の発狂石」。

謎の円盤UFO』はその他にも面白い話がたくさん有って、できればDVDを買って、全部見て欲しいですね。最後に現在の私のコレクションを掲載しておきます。

謎の円盤UFOのミニチュア・コレクション

 

旧車の楽しみ

自転車に凝りだすと、昔の自転車(旧車)が欲しくなってきたりします。昔を懐かしむというよりは、例えばロードレーサーであれば、名選手が乗っただとか歴史的名勝負で使われた自転車とかの、いわゆる名車とされる自転車を所有して、実際に乗ることによって当時に思いをはせたりするわけです。いわゆるヴィンテージと呼ばれているものですが、自転車乗りの中には趣味として楽しんでおられる方が結構います。若い人は性能への要求から最新型の軽量で高性能なカーボンフレームの自転車を選ぶ事が多いと思いますが、わざわざ重くて実用度が低い旧車に乗って喜んでいるわけです。

DEROSAの旧車(70年代) MOLTENIチームカラーにレストア。コンポはヌーボ・レコード。

ロードレーサーの場合はイタリア車、ランドナーとかスポルティフなどのツーリング用自転車の場合はフランス車が多いです。イタリア車の有名どころではビアンキ、チネリ、コルナゴ、デローザ、レニャーノ等(以前のイタリアはものすごくたくさんの小さな工房が有りました)。フランス車の場合はルネ・エルスとアレックス・サンジェなどです。旧車はヴァイオリンで言うストラディバリみたいなもので、作り手が亡くなると入手困難になって、価値が高くなります。欧州では古い物ほど価値があるとよく言われますね。

フランスの旧車をモチーフに軽量チューブ8630Rで製作したグランボア(親方謹製モデル)

現代の自転車は手元変速と言って、ブレーキレバーに変速機が内蔵されていて、素早いシフト・チェンジをすることが出来ますが、これは日本のシマノの発明です。それまでの日本の部品メーカーは、イタリアのカンパニョーロとかフランスのユーレー、サンプレックスとかの歴史の古いメーカーの模倣をやって、技術的に追いつこうと頑張っていました。シマノは手元変速の考案によって、立場を逆転してしまうという凄いことをやってのけました。NikonとかCanonのレンズがLeitzとかZeissを光学性能で抜いてしまったのと同じです。でも技術的に追い越したとしても、モノとしての価値というのは別次元のものです。芸術品/工芸品として観た場合には、NikonとかCanonの最新型レンズよりもLeitzとかZeissのオールドレンズの方が何倍も価値が高いわけです。自転車の部品も同様に、古いものは希少性も手伝って、古ければ古いほど価値が高いといえます。そして次代の人にに伝え残さなければならない宝物であると思います。

古い形にこだわったMAKINO製スポルティフ。カーボンホイール等により8Kg前半を実現。

長い歴史の中で廃れずに生き残ってきた伝統的な形というのは、歌舞伎の型のごとく残していくべきものだと思います。たとえば自転車のホリゾンタル・フレーム(いわゆるダイヤモンド形状)などがそうではないかと。京都の古い建物(京屋)を残していこうと活動されている若い人は立派だと思いますが、私も古い形の自転車に乗り続けることで、旧車の美しさを残すことの一助にでもなればと思う今日この頃です。