My徒然日記帳

スナップショットの感覚で世の中の事象をとらえ、浮かんだ考えを気ままに綴っていきます。

クロスバイクは初心者向け?

最近は体力作りのためにスポーツ用の自転車を買って長距離を走ってみようかなと考える人が増えているようで嬉しく思います。よく自転車好きの人に何を買ったら良いか相談される方を見かけますが、私も自転車乗りの端くれとして、なにかアドバイス出来ればと思います。

クロスバイク TREK FX1 Disc フラットバーハンドルMTBパーツが特徴。

まず誰もが考えるのが、いわゆるクロスバイクと呼ばれる自転車です。少しお金を出せば手が届きそうなので、初心者向けと考えている方が多いと思いますが、本当でしょうか?何故かといえばクロスバイクは疲れやすく、長い距離を走るのには向かないと思うからです。クロスバイクというのは、舗装もダートも走れるようにしたMTBロードレーサーのあいのこみたいな車種ですが、大抵はアルミの頑丈なフレームにMTBのパーツを組んで、タイヤもブロックパターンだったりします。何故MTBのパーツなのかと言えば、ハンドルがフラットバーなので、流用しやすいからです。

MTB(マウンテンバイク)の GT Aggressor 極太タイヤでサスペンション付き。

MTBというのは本来、ドロんこ道(ダートと言います)を走るためのもので、悪路走破性に優れています。フレームは肉厚のある頑丈なアルミフレームで、太いタイヤを履き、ショックを伝えないようにサスペンションを組み込みます。だから当然、重量は重くなるし、サスペンションが推進力を吸収してしまうので、長距離を走るには向きません。ダートを走る競技があって、舗装路を走るのとは全然違った面白みが有りますが、そういう競技向けに作られた車種です。でも、初心者の方はそんな使い方をしたいのでは無くて、楽に舗装路を走りたいんだと思います。

BRIDGESTONE ANCHOR RL3 DROP カーボンフォーク付きで手頃な価格の国産ロード。

まず長距離を走るのに大事な事は、できるだけ軽い事(特に車輪)。ハンドルバーは姿勢が固定されてしまうフラット形状では無く、いろんな姿勢を取ることができるドロップ形状が適しています。タイヤは乗り心地を考えると、ママチャリくらいの太さのタイヤが初心者向けとしておすすめです。と考えると、正解は少し太めのタイヤを履いたロードレーサーという事になります。タイヤが細い場合は太めのもの(幅25mm~32mm)に交換します。最初から高いロードレーサーを買う必要はありません。一番安いロードレーサーを買って、徐々にグレードアップしていけば良いのです。その時に重要なのが部品の互換性です。クロスバイクはホイールのリアシャフトの内幅がMTBと同じ135mmの事が多く(ロードは130mm)、変速機も互換性が有りません。

Cannondale CAAD Optimo4 米国老舗のロード。有名メーカー品が7万円前後で買える。

以上の基本を押さえて、ロードレーサーを扱っている自転車屋さんに行って、条件の合う自転車を選ぶと良いと思います。そういう自転車店は何が重要かがよくわかっていますし、親切に相談に乗ってくれると思います。修理メンテナンスを考えると、量販店とかホームセンターではなくて、長く付き合える近所の自転車屋さんのほうが良いですね。是非そういうお店を探してみてください。

 

 

第一作を超えられないジレンマ

映画でもアニメーションでも、人気作品というのは次々と続編が作られる傾向にあります。最初から三部作のつもりで1作目が中途半端に終わるのもありますが、大抵は1作目で人気が出て続編が作られるパターンが多いですね。ただし、続編に期待しても、なかなか第一作を超えられないものが多いと思います。『機動戦士ガンダム』などはその典型でしょう。「ガンダム」という名前が付くだけで、中身が無くてもそこそこ人気が出てしまうのが少しズルい気がします。あまり批判的な事を書くと『Zガンダム』とか『ガンダムSEED』などのファンの方を不愉快にさせてしまう可能性があるので、このくらいにしておいて...(Unicornのラストだけはちょっと許せない気がする)。

とにもかくにもファースト・ガンダムというのは出来が良かったですね。ストーリーの方は、まあシャアがカッコ良いからヨシとするか、くらいなんですけど、ニュータイプっていう言い方が、それまでのエスパーのイメージを完全に覆したというか、画期的でした。ロボットでは無くモビルスーツと言い換えたのも同様。なにより凄いのが悪者の方がカッコ良いという設定で、それ以前のアニメではまずあり得なかった。コンバトラーV(ブイ)のガルーダとかボルテスV(ファイブ)のプリンス・ハイネルなどの美形キャラは居るには居ましたが、シャアはレベルが違う。「赤い彗星」っていうネーミングも秀逸で、アニメ女子が大騒ぎをして大変な事になっていたのを思い出します(実は個人的には、シャアだけはニュータイプであって欲しくなかったんですけど)。そういえばセイラさんの入浴シーンがアニメ・ファンを震撼させましたね。

 セイラの入浴シーン

話変わって、1作目が群を抜いているといえば『ルパン三世』でしょう。途中で宮崎駿が加わって作風が一変しており、前半を大塚ルパン、後半を宮崎ルパンと呼ぶとすれば大塚ルパンが大人向け、宮崎ルパンは子供向けといえるでしょうか。両者甲乙付け難いのですが、どちらかと言えば前半の方がルパンの渋さが際立っていて好きです。頼りになる相棒の次元、孤高の武士道を貫く五右衛門、裏切り者の峰不二子と、キャラも粒揃いでした。「キザな悪党め」とルパンを評した銭形も味のあるキャラで、特に「脱獄のチャンスは一度」の時の銭形は最高でしたね。それとメカもののこだわりが半端無く、パイカルメッサーシュミットで登場したりするなど、大塚康生(やすお)さんのマニア心をくすぐる演出が憎かったですね。なのに子供向けだと勘違いされたのか、お色気シーンとかに対する世間の風当たりが強く、早期終了してしまったのが残念です。

謎の女 峰不二子

2作目以降のルパンはダメでしたね。Part II放映開始の時はあまりに期待が大きすぎて、1話を観てにわかに信じられず、2話で愕然として、3話目で視聴終了。音楽は良かったけれど、ルパンがただの三枚目になってしまいましたから。「死の翼アルバトロス」も「さらば愛しきルパン」も観ましたが、宮崎駿さんの力をもってしてもダメでしたね。

 

最近は過去の名作をリメイクしたものが増えてきたように思います。現在のアニメの描画テクニックはものすごく手が込んでいて進化を感じるので、是非とも若い人たちに良きリメイク作品や続編を期待したいと思います。

 

大友克洋のSF漫画

映画『AKIRA』で一躍メジャー作家となった大友克洋さんですが、どちらかといえば短編SF漫画みたいなのを描くのがとても上手い人で、その昔幅をきかせていた漫画評論家と名乗る人達から随分と賞賛されていました。評論記事には大抵漫画の一コマが挿入されていて、その中で特に私が衝撃を受けたのが大友克洋さんの『FIRE BALL』でした。

FIRE BALLの表紙

当時はマイナーな雑誌のバックナンバーを探すのがとても困難で、あちこち探せどどこにも無くて途方に暮れていました。その後、国立国会図書館の存在を知り、そこでオリジナルの雑誌(アクション・デラックス1979年1月27号)を探し当て、コピーを入手することに成功しました。苦労したので、手にしたときの感動はひとしおでしたね。

AKIRA』はちょっとパイロット・フィルム的というか、『FIRE BALL』や『童夢』などの集大成的作品にしようとしてどっちつかずになってしまった感が有るので、どちらかといえば『FIRE BALL』の路線でリメイクしてほしかったなと思います。

 童夢

童夢』は超能力少女vs超能力爺さんという斬新な展開で、ショッキングな描写も多かったせいか、評論家の間ではかなりの話題作でした。大友克洋さんは執筆にムラがあるというか毎週連載みたいな感じでは無かったので、連載時は話が飛び飛びでうまくつながっていない感じでした。それが双葉社のコミック本として出た時に大幅な加筆をして、まとまりのある作品になったと記憶しています。そういう理由で加筆分の絵が違っていて、ここが加筆箇所だなというのがよくわかるところが面白いと思います。

 衝撃的なFIRE BALLのシーン

FIRE BALL』は童夢同様に超能力を扱っていますが、どちらかというとAiに支配された管理社会の恐怖を主題にした作品です。この題材はジョージ・オーウェルの『1984』が元祖で、映画『未来世紀ブラジル』なども有名ですが、どちらも自嘲的で欲求不満が残り、あまり好きになれませんでした。手塚治虫さんの『火の鳥・未来編』もお手本的な名作ですが、大友さんの『FIRE BALL』はレジスタンス活動であるとか、人体実験とかの反骨的で毒が有るところが魅力だと思います。難を言うと体制側の圧政の描写が足りないせいか、少し荒削りな感じが有って、もう少し描き込んでいたらと思う一方、下手に加筆せずにこのままが良いのかなとも思います。

その後『FIRE BALL』は、「彼女の想いで...」という講談社の短編集にやっと掲載されることになりました。「SOS大東京探検隊」というのも同時発売されていて、大友さんの短編SFを一気に読むことが出来ます。『危ない!生徒会長』とかの異色作もあって、色々と楽しめます。

 

権力と腐敗

ロシアのウクライナ侵攻(侵略ですね)で、ロシア兵が市民を大量に虐殺してプーチンへの非難が高まっています。恐らくロシア軍の士気は非常に低く統制が効いていない事は容易に想像できますが、大義の無い戦争で大量に犠牲を出している(秘密主義のなかで秘匿されているであろう事実)ロシア兵が、腹いせで戦争犯罪に走るのではないかと思われます。だからといってウクライナに正義が有るのではなく、殺人を犯しているのは同じです。戦争は殺人を正当化するものだから、絶対に避けなければいけない。許せないのは戦争をやらせている為政者の方です。太平洋戦争の日本だって、政権軍部に日本の国を守れと言われて、大義があるがごとくアメリカ兵を殺していました。

 

過去にはプーチン以上に極悪非道な為政者が沢山いました。スターリン毛沢東ヒットラーポルポト...。政治家は在任期間が長いほど腐敗すると言います。権力を持った為政者は自分の権力維持のために政敵(反対者)を排除しようとします。その結果、周囲はYESマンばかりになって、政権を批判する人間が居なくなり独裁体制が築かれます。独裁制の問題点はチェック機構が働かないことで、間違った政策を進めたり、腐敗が蔓延したります。歴史上何度も繰り返されてきたことですが、権力の座についた為政者たちは過去の過ちの歴史を忘れてしまうようです。これは企業のトップも同じです。

 

日本では戦後最長の長期政権と言われた安倍政権が、モリカケサクラや統一教会など、腐敗の温床になりました。安倍晋三の大罪は三権分立ならぬ三権癒着体制を作り、批判勢力である野党やメディアを弱体化させたことです。与党は政教分離すらできていない(創価学会を含めて)のを棚に上げて、共産化だの野合だのと言っていて非常に腹が立ちますが、批判ばかりで対案が無いなどと、そんなの当たり前だろう!どうせ聞く耳も無いくせに偉そうに議論するフリをするなと言いたい。野党は野党で馬鹿丸出しというか、内容次第では与党に協力するだのと批判勢力としての役割を完全に放棄している有様で、これでは政権交代の受け皿になどなれるはずもありません。一党独裁体制のもと、閣議決定で好き放題やっている政権をこれ以上野放しにさせないためは、対立勢力への加勢こそが必要なのですが、国民は国民で支持政党が無いなどと選挙を放棄し、利益団体に岩盤支持層を持つ自民党に塩を送っています。総じて全部ダメなのが今の日本で、円安が進むのも無理もありません。

 

政府は、左翼思想(=批判勢力)を排除して中道化させるだの、メディアは中立な立場で報道すべきだなどと巧みに批判勢力の攻撃をかわしてきます。そうやって多くのジャーナリストや常識のある有識者が放送メディアから排除されてきました。中立の立場とか言いながら政権に忖度して都合の悪い事をひた隠しにしているNHKに視聴料まで払わされ、民放よりはマシだからとおとなしく観ているうちにじわじわと洗脳が進み、「日本って良い国だなあ~」(YMOのアルバムで有りましたね)とやっていると、気が付いたらゆで蛙になっている様な気がしてなりません。

 

 

惑星ソラリス

私が知る中でSF映画の最高峰はというと間違いなくAタルコフスキーの『惑星ソラリス』です。1972年カンヌ国際映画祭審査員特別賞を受賞した不朽の名作。全編に流れるJSバッハのコーラル・プレリュードがとても印象的で、映画の物哀しさを引き立てています。(映画ではオルガン曲ですが、私はAブレンデルピアノ曲が好きです。PHILIPSから出ているイタリアン協奏曲に入っていますが、とても良いアルバムでおすすめです。)

眠くなるSF映画と言えば、Sキューブリック監督の『2001年宇宙の旅』が筆頭ですが、この『惑星ソラリス』の序盤も負けず劣らず睡魔との戦いです。最初の頃は1回も眠らずに最後まで観ることが不可能でした。特に(なんとソ連、いやロシア映画なのに)東京の首都高を延々と回り続けるシーンが有り、間違いなく熟睡できます。そのシーンさえ耐え抜けば...とはいかず、試練は続きます。惑星ソラリスを議論する会議。なぜソラリスから帰ってくる人間は皆、精神異常をきたすのか。録画ビデオにはソラリスの海を覆うただの霧状のモヤモヤしか写っていません。しかし、このモヤモヤこそがソラリスの正体だったのです。

前回、科学技術に対して批判めいた事を書きましたが、科学批判の最右翼がこの映画だと思います。科学の愚かさ、人間の思い上がりの虚しさを、これほど鮮明に描いた映画というのを他に見ることができません。昔の映画なので、特別な特撮テクニックも何も無いのですが、にもかかわらずにこれだけの映画を作りあげるタルコフスキーというのは正に天才です。素晴らしいSF映画の条件として、CGだとか特撮の凄さみたいなのが本当に意味が無いと思えてしまいます(2001年宇宙の旅とは真逆ですね)。そして恐らく原作があるんだと思いますが、読まない方が良いのだろうと思います。

数々の失敗事例を見た後、自分を強靭な精神力の持ち主だと自負する主人公の科学者がソラリスの謎を暴きに行くのですが、そこで彼は世にも恐ろしいものを見ます。そして科学者として客観的であろうとすればするほど人間性を捨てていかなければならないという葛藤の中で、屈辱に耐え切れず遂に彼は科学者である事を放棄します。しかしソラリスの海に屈した彼を待っていた結末とは...。

主人公の科学者同様、これを観たあなたも、恐らくこの映画を結論づける事が出来ないのではないかと思います。

 

 

 

ナウシカの意味するもの

風の谷のナウシカ』は宮崎駿さんの代表作で、多くの人に評価された名作だと思います。原作は宮崎駿さん自らが描いた漫画で、映画と原作の間にはストーリーに本質的な違いがあります。私は映画の方を先に見たのですが、原作の方は少し難しい領域に入りすぎているきらいがあるので、映画の方について書こうと思います。

クシャナは原作がイチオシ:似顔絵

ナウシカの映画を観始めてすぐに感じたのは、これは少女が主人公として描かれているけれど、腐海の存在こそが本当のテーマなんじゃないかという事です。腐海の最深部にたどり着いて、その存在の深い意味に気がついた少女の驚きの瞬間がとても印象的でした。宮崎駿さんは昔から地球愛的なテーマに取り組んでいて、TVアニメの名作『未来少年コナン』も同様のエッセンスが感じられます。文明の急激な加速が地球規模の自然破壊を招き、破滅の間際で人間が自らの愚かさに気づく...。いわばSFの定番テーマの様ではあるのですが、ナウシカの違うところは汚染の実体そのものと考えていた腐海が、実は自然の浄化作用だったという点です。少女はここに神の見えざる手の存在を感じるわけです。

腐海の底で涙を流すシーン:似顔絵

生物の進化はあたかも目的を持ってる様に見えて、実は環境適応能力の差で淘汰された結果であるとするのがダーウィンの進化論です。太古の昔から生物は自然に寄り添う様にして自分の姿や形を変えて生き延びてきました。度々襲ってくる地殻変動や天変地異によって絶滅の危機に瀕するたびに強い生命力を得てきたわけです。中でも脳が異常発達した人類は、知恵を武器にして生物の頂点に立ちました。そして原始時代から神の仕業として畏れられてきた自然災害をも、技術の力で克服するまでに至りました。中世の時代には宗教的な考えが支配的でしたが、近代では科学が宗教に代わって信仰されるようになり、その結果多くの無神論者を産みました。人間は神をも恐れない存在となったわけです。

 巨神兵のスケッチ

ただし科学というのは本当に正しい方向に進んでいるのでしょうか。19世紀の産業革命以降、科学技術は急速な進歩を遂げ、人間の知能を超えるAIを産むに至りました。しかし技術は世の中を便利にした反面、その代償として何万年もかけて造られた地球資源の大部分を極めて短期間に消費してしまったのです。その過程で排出された大量の廃棄物は自然や生態系を壊し、異常気象による大規模な自然災害が多大な被害をもたらすようになりました。便利な道具だったはずの科学技術が、人間の手に負えない「巨神兵」の様になっていませんか?と宮崎駿さんは問うている気がします。間違いを犯しやすい人間にとって、自然の再生能力というのは、神の様な偉大な存在です。風の谷のナウシカはそうした啓示が込められた作品だと思います。私は東日本大震災に何も学ぶことのできない日本政府を見て、暗澹たる気持ちになります。

つげ義春と千と千尋の神隠し

つげ義春という漫画家を知るきっかけとなったのは、NHKの芸術祭参加作品ドラマ『紅い花』です。高校生から大学生にかけて放送委員会に属していて、ラジオドラマのコンクールに参加したりした経験があり、芸術祭のドラマに興味を持っていました。中でも『紅い花』は非常に印象深く、NHKアーカイブで観られると良いのですが、マイナーすぎるせいか未だに観ることが出来ません。(NHKさん、是非よろしくお願いします)

 

ドラマは本題の、つげ義春の『紅い花』という漫画作品のドラマ化なのですが、『ねじ式』や『古本屋の少女』などの複数の作品のオムニバス的な構成になっています。そして、むしろ強く印象に残っているのは『ねじ式』に出てくる「金太郎飴、ポキン」の老婆のシーンでした。つげ義春はよく自分の見た夢を漫画として描く手法を採っていたと聞きます。そのせいか、つげ義春の作品を読んでいると自分も夢の中をさまよっている様な不思議な気分になります。そしてその画風は、昭和の時代の暗い影を帯びた様な、なんともいえない独特の雰囲気を持っています。

ねじ式の有名なシーンと、その元になった写真?

 

ところで、このシーンをどこかで見た気がしませんか?そうです。宮崎駿の『千と千尋の神隠し』です。

千と千尋の神隠しのシーン

この風景は、よく台湾の九份(きゅうふん)がモデルだと言われていますが、きっと宮崎駿さんも『ねじ式』を読んで、このシーンをイメージしたのではないかと思います。

台湾の九份

また、湯婆婆の屋敷に架かる橋は、四万温泉の積善館がモチーフになったと言われていますね。私も宿泊しましたが、補修不足で少々朽ちているものの、大正ロマンの香る宿で、夕暮れ時の灯りがともり始めた頃が特に良かったですね。

四万温泉の積善館

 

千と千尋の神隠し』は数ある宮崎作品の中でも特に好きな作品です。そこには、つげ義春の世界と共通した何かが流れていて、夢の中を彷徨っているような、そしていつかどこかで見た懐かしい風景が入り交じった様な不思議な感覚にとらわれる感じがあります。そして、ふと現実に戻ったときに、私が見たあれは一体何だったんだろう...と。夢って脳の疲れを和らげる作用だそうですが、不条理で不可解で不思議の世界ですね。